サイヤ人は本当に「誇り高き戦闘民族」なのか?

サイヤ人
引用元 ドラゴンボール 集英社

「誇り高き戦闘民族サイヤ人」。この言い回しは、もう作品の共通認識のようになっています。
では、これを最初に言い出したのは誰だったか、覚えているでしょうか。ラディッツです。地球に降り立った彼は、自分の素性も知らずに暮らしていた弟に向かって、こう名乗りました。

生まれは惑星ベジータ!! 誇りたかき全宇宙一の強戦士族サイヤ人だ!!!

サイヤ人という種族が読者の前に初めて姿を現す場面であり、私たちが今も使っている「誇り高い」というイメージの出発点でもあります。

ところがこの「誇り高い」、具体的に何を指しているのかは、作中で一度も説明されていません。そして説明がないまま、読者の側が勝手に中身を補ってきました。正々堂々と戦う、一対一にこだわる、卑怯な真似はしない。だいたいそのあたりでしょう。

問題は、その中身を裏づける描写を原作から探そうとすると、これがなかなか出てこないことです。代わりにいくらでも出てくるのが、命乞い、だまし討ち、人質、共闘、小細工。そして種族ぐるみで請け負っていた、惑星規模の殺戮業。
そこで今回は、この当たり前になりすぎた一文を疑ってみたいと思います。テーマは「サイヤ人は本当に誇り高き戦闘民族なのか?」です。

先に結論を書いておきます。
サイヤ人は誇り高い民族ではありませんでした。「誇り高い民族だ」ということにしておかないと、やっていけない立場に置かれていたのだと思います。
かなり夢のない話に聞こえるかもしれません。ですが最後まで読んでいただければ、この読み方をしたときにだけ見えてくる景色があることを分かっていただけるはずです。

ラディッツのセリフの検証

まず、冒頭のラディッツのセリフは、他人がサイヤ人を見て下した評価ではなく、サイヤ人自身の名乗りだということです。しかも「全宇宙一」というおまけつき。誰かに認められた称号ではなく、自分で自分に貼ったラベルなのです。

初対面で「オレは義理堅い男だ」と言ってくる人がいたとして、その一言で判断する人はいません。評価が決まるのは、その後の行動を見てからです。
では、この「誇りたかき全宇宙一」を名乗った男は、そのあと何をしたのでしょうか。ラディッツが地球にいた時間は、一日にも満たない短さです。にもかかわらず、彼の行動は驚くほど濃い内容になっています。
まず、様子を見に来ただけの農夫を、撃たれた弾を弾き返して殺します。戦闘力5の相手です。次に、弟に仲間になれと迫り、断られると四歳の甥をさらって人質にします。そして解放の条件として、地球人を百人殺してこいと命じる。戦士同士の勝負ではなく、無抵抗の一般人を殺せというノルマです。

さらに戦いの終盤、悟空にサイヤ人の弱点である尻尾をつかまれて力が抜けると、彼は弟に向かって命乞いを始めます。もう二度としない、悪かった、と。そして悟空が情にほだされて手を離した瞬間、悟空を攻撃し、まんまと騙されたなと笑うのです。

引用元 ドラゴンボール 集英社

ラディッツは、任務を忘れて地球で暮らしていた悟空のことを、一族の恥だと罵りました。しかし、この一連の行動を見ると、恥をさらしているのはどっちなんだ、と言いたくなります。
しかもこれ全部、「誇りたかき全宇宙一の強戦士族」という自己紹介から数時間以内の出来事なんですよね。作中で最初にその言葉を口にしたキャラクターが、その口も乾かないうちに、誇りとは正反対のことを一通りやってみせている。
私は、ここにサイヤ人という種族の姿がほぼ全部出ていると思っています。

「ラディッツは弱かったから」で片づけていいのか

とはいえ、こう思った方も多いはずです。
「ラディッツは生き残ったサイヤ人の中でも最弱で、尻尾すら鍛えていなかった落ちこぼれだ。あんな男を基準に種族全体を語るのは無理がある」

引用元 ドラゴンボール 集英社

たしかにラディッツは弱い。戦闘力1500では、ナッパの4000(諸説あり)にも届きません。ベジータもナッパも、彼の死を悼むどころか、弱いから死んだのだと切り捨てています。
ですが、この反論は成り立たないと思います。理由は二つあります。

理由1:ラディッツが説明した「仕事の内容」

ラディッツは悟空に、サイヤ人が何をして食べているのかを説明しています。簡単に言えば、環境の良い星を見つけて、そこの住民を全滅させ、移住先を探している異星人に高く売りつけるという商売です。落ちこぼれ一人の逸脱ではありません。種族ぐるみの事業内容です。

しかも手口がえぐい。悟空自身がそうだったように、サイヤ人は赤ん坊を単身で惑星に送り込み、その星の住民を皆殺しにさせるという方法を取っていました。悟空が地球に来たのも、この任務のためです。

引用元 ドラゴンボール 集英社

つまり「戦闘民族」の実態は、戦士同士の名誉ある戦いなどではなく、非戦闘員の虐殺までセットになった惑星の地上げ業だということになります。しかも現場を任されるのは赤ん坊。これを誇り高いと呼ぶのは、さすがに無理があるでしょう。

理由2:ラディッツのやり方を、誰も恥だと言っていない

ラディッツが死ぬまでの一部始終を、ベジータとナッパはスカウター越しに聞いていました。二人の反応は、あいつは弱かったから、という一点だけです。
命乞いをしたことも、だまし討ちをしたことも、幼児を人質に取ったことも、誰ひとり問題にしていません。

引用元 ドラゴンボール 集英社

もしサイヤ人に武人としての作法があったなら、「サイヤ人が地球人に命乞いしただと?」という反応が出てもよさそうなものです。でも出てこない。彼らが恥だと考えたのは、負けたことだけなのです。
サイヤ人にとっての恥は敗北であって、手段の卑劣さではない。この価値観は、このあと最後まで一貫します。

「誇り」という言葉には、二つの意味が混ざっている

ここで、前提の三つ目に戻ります。私たちが「誇り高い」という言葉を使うとき、実はまったく性質の違う二つのものを、一語でまとめてしまっています。

ひとつめは、戦い方の作法としての誇りです。 正面から戦う。不意を突かない。命乞いはしない。降参した相手にとどめを刺さない。数の有利に頼らない。いわゆる武人の美学ですね。
ふたつめは、格付けとしての誇りです。 オレは王族だ。オレは上級戦士だ。あいつは下級戦士の分際で。我々は宇宙一の種族だ。血統と序列に対する自負のことです。

「誇り高きサイヤ人」と聞いて読者が思い浮かべるのは、間違いなく前者でしょう。正々堂々、一対一、卑怯な真似はしない。そういう戦士像です。
ところが原作を読み返すと、サイヤ人が実際に見せているのは、ほとんど後者だけなのです。ここからは、この物差しで残りの二人を見ていきます。

上級戦士のナッパは、もっと分かりやすい

ラディッツは落ちこぼれだから、という言い訳が通らないことは先ほど確認しました。では、もう少し格上のサイヤ人はどうだったのか。ナッパです。
戦闘力4000(諸説あり)。ラディッツの倍以上あり、ベジータからも戦力として計算されていた男ですから、こちらは落ちこぼれではありません。生き残ったサイヤ人の中では、れっきとした上級戦士です。

その彼が地球でやったことを並べてみます。到着早々、暇つぶしのように街を一つ吹き飛ばす。天津飯の腕を叩き落とし、餃子の自爆を鼻で笑い、ヤムチャの死には一瞥もくれない。
しかし、この程度なら、まだ「残虐な戦闘民族」という説明で片づけられます。私が引っかかるのは、悟空が到着してからの彼の行動です。

界王拳を身につけた悟空に、ナッパはまるで歯が立ちませんでした。勝負ありと見たベジータは、ナッパに手を引けと命じます。実力差は誰の目にも明らかで、続けたところで勝ち目はない。
ここでナッパが取った行動が、どうにも見過ごせないのです。彼は、このまま素直に引き下がるのは面白くないという、ただそれだけの理由で、悟空ではなく悟飯とクリリンのほうへ突っ込んでいきました。

引用元 ドラゴンボール 集英社

目の前に自分より強い相手がいるのに、そちらは避けて、確実に勝てる弱いほうを殺しに行く。しかも相手は子どもです。これは戦士の判断ではありません。負けを認めたくない男の八つ当たりです。はっきり言ってダサい。
そして結末がまた情けない。悟空に背骨を折られて動けなくなったナッパは、ベジータのところまで這っていき、助けてくれと訴えます。ラディッツが弟に命乞いをしたのと、まったく同じ構図です。

つまり、地球にやってきたサイヤ人三人のうち二人までが、追い詰められた瞬間に同じ反応を見せている。命乞いは、この種族にとって例外的な失態ではなく、むしろ標準的な振る舞いだと考えたほうが自然でしょう。
では、助けを求めてきたその仲間を、残る一人はどう扱ったのか。ここからが本命です。

ナメック星編までのベジータは、驚くほど手段を選ばない

ベジータは、助けを求めて這ってきたナッパを引き寄せると、空へ放り投げて始末しました。もう戦力にならない駒だから、という理由です。
「誇り高きサイヤ人の王子」という看板を、いちばん強く背負っているのが彼です。ここを検証しないことには話が終わりません。ナメック星編が終わるまでの行動を、思いつくまま並べてみます。

  • 栽培マンという捨て駒を先に投入する。自分たちは腕組みして見物です
  • 悟空の方が戦闘力が上だと見るや、人工の月を作ってまで大猿に変身する。戦闘力が跳ね上がる条件を、自分で整えて発動させています
  • ドドリアの命乞いに応じるふりをして情報を吐かせ、そのうえで殺す。しかも背中を向けて逃げるところを撃っています
  • ザーボンを正攻法ではなく、油断から生じた隙をついて倒す
  • クリリンと取引して、ドラゴンボールを運ばせる
  • ギニュー特戦隊戦では、クリリン・悟飯とはっきり共闘する
  • クリリンに「オレを殺しかけろ」と頼む。瀕死から回復すると強くなる体質を利用するためです。プライドの塊であるはずの男が、見下していた地球人に自分を刺してくれと頼んでいる
  • デンデの回復も仙豆も、使えるものは全部使う

共闘、不意打ち、だまし討ち、小細工。この時期のベジータは、勝つために必要なら何でもやります。むしろ手段を選ぶという発想そのものがないと言ったほうが正確でしょう。
念のため申し添えますが、私はこれを批判しているのではありません。むしろこの頃のベジータは、戦術家として一貫していて非常に面白い。フリーザという理不尽の下で生き延びるには、使えるものは全部使うしかないのですから。
ただ、それは「誇り高い」という言葉で説明できるものではない、というだけの話です。

反論の検討:それでも彼には誇りがあったのでは

公平を期すために、逆の材料も見ておきましょう。ベジータの誇りを示す描写として挙げられそうなものは、だいたい三つです。

その1:地球で悟空が来るまで三時間待った

その気になれば地球人を全滅させられる状況で、あえて待った場面です。武人らしくは見えます。ただ、彼の目的はドラゴンボールであり、ラディッツを倒した相手の情報は必要でした。そして何より、強い相手と戦ってみたいという欲求がある。それと、この三時間のあいだに彼がやったのは、ナッパに好きなだけ暴れさせることです。武人の矜持がある男が、待ち時間に部下の虐殺を眺めているでしょうか。

その2:フリーザに最後まで頭を下げなかった

これは本物だと思います。殺される直前まで、彼は命乞いをしていません。涙を流しながら、サイヤ人がフリーザに何をされたのかを悟空に託して死んでいく。

ただし、これも二つめの誇り、つまり格付けの話として説明がついてしまいます。彼にとって最大の屈辱は「フリーザの部下である自分」であって、最期の瞬間だけはそこから降りたかった。序列の問題なのです。

その3:サイヤ人をなめるな、という趣旨の発言を繰り返す

これも格付けの話です。種族としての格を主張しているだけで、戦い方の作法を語っているわけではありません。
というわけで、反論を検討しても結論は変わりません。ナメック星編までのサイヤ人が持っていたのは格付けの誇りだけで、作法の誇りは見当たらない。これが原作から読み取れることです。

では、あの「一対一へのこだわり」はどこから来たのか

ここで多くの方が引っかかると思います。「いや、ベジータは一対一にこだわっていたじゃないか。カカロットと二人がかりで勝つくらいなら死んだほうがまし、みたいな感覚があったはずだ」

その通りです。ただし、それは人造人間編以降のベジータなんですよね。
人造人間19号が現れたとき、彼は誰にも手を出させず、単独で片づけます。セルに「完全体のオレと戦いたくないのか」と誘われると、止めようとするトランクスを制して、セルが完全体になるのを許してしまう。セルゲームでは悟空に先陣を譲る。魔人ブウ編では、悟空との決着をつけたい一心で、バビディに自ら心を明け渡す。

老界王神からポタラを渡された場面もそうです。悟空と一つになれと言われた彼は、当然のように渋ります。カカロットと融合するなど冗談ではない、というわけです(結局は受け入れますが)。
つまり、私たちが「サイヤ人の誇り」だと思っているあの一対一主義は、種族の伝統ではなく、人造人間編以降のベジータ一人が持ち込んだ個人的なルールなのです。

その証拠に、ナメック星編までの彼は共闘に何のためらいもありません。むしろ組める相手は積極的に使う。同じ人物とは思えないほどです。

では、何が彼を変えたのか。
それは、悟空が先に超サイヤ人になってしまったからでしょう。王子として生まれ、伝説の超サイヤ人になるのは自分だと信じて生きてきた男の目の前で、下級戦士の息子がその座を持っていった。ナメック星編までの彼は「フリーザを倒すために強くなる男」でしたが、それ以降は「悟空を超えるために強くなる男」に変わります。

そして目的が変われば、使える手段も変わってしまう。
フリーザ相手なら、共闘も不意打ちも小細工も全部アリでした。勝ちさえすればよかったからです。ところが悟空が相手だと、誰かの力を借りて勝っても意味がない。それでは「オレのほうが上だ」の証明にならないからです。だからベジータは、一対一という縛りを自分に課すしかなくなった。
これは民族に受け継がれた美学ではなく、たった一人のライバルとの関係から逆算して生まれた、後付けのルールなのです。

しかも、誇りを口にし始めた時期がいちばん危ない

厄介なのは、彼が誇りを強く意識するようになった時期こそ、取り返しのつかないことをやっている時期だという点です。
セルを完全体にした一件がその代表でしょう。目の前に世界を滅ぼす芽があり、トランクスがそれを潰そうとしているのに、彼は「完全な状態の相手を倒してこそ意味がある」という自分の満足のために止めてしまう。結果、世界は崩壊寸前まで追い込まれ、大勢が死にました。

魔人ベジータのときも同じです。悟空との決着のために、バビディの魔術をあえて受け入れる。そして武道会の会場で観客席に気弾を撃ち込み、無関係な人たちを殺している。そのうえで彼は、体と心は支配されても誇りだけは奪えない、という趣旨のことを言うわけです。

関係のない観客を殺しておいて守られる誇りとは、いったい何なのでしょうか。
ここに、サイヤ人的な誇りの正体が出ていると思います。それは他人への責任や作法をまったく含んでおらず、自分が自分をどう思うかだけで完結している。だから外側にどれだけ代償を払わせても、本人の中では誇りが無傷のまま残ってしまう。

これはもう、誇りというより自己愛の暴走に近い。そして大事なのは、原作がそれを美談として描いていないことです。セルの一件でベジータは完膚なきまでに叩きのめされ、もう闘わないと言い残して戦場を去ります。魔人ベジータも、本当は自分の意志で受け入れたのだろうと悟空に見抜かれ、最後は自爆でしか始末をつけられませんでした。
鳥山先生は、サイヤ人の誇りを一度も無条件では肯定していないのです。

仮説:あの言葉は、フリーザの下で生きるために必要だった

ここまでの検証で、サイヤ人には作法としての誇りがなく、格付けの誇りだけが異様に強い、ということが見えてきました。では、なぜそちらだけが肥大したのか。ここからが本題の仮説です。
彼らが置かれていた状況を整理してみます。

  • サイヤ人はフリーザ軍に組み込まれ、惑星の地上げという下請け仕事をさせられていた
  • 王子であるベジータですら、フリーザの機嫌をうかがう立場だった
  • 母星の惑星ベジータは、フリーザ本人の手で消し飛ばされた
  • それなのに生き残りたちは、巨大隕石の衝突による事故だと信じ込まされていた
  • そして帰る星を失ってからは、逆らうという選択肢そのものが消えた

どう好意的に見ても、これは半分奴隷のような立場です。
いちばん残酷なのは、真実を知らされていなかったことでしょう。ベジータが事実を知るのは、ナメック星でドドリアの口から聞かされたときです。それまでの長い年月、彼は自分の同族を皆殺しにした男の下で、忠実に星を売る仕事を続けていたことになります。

もちろんベジータ自身、その立場を歯がゆく思っていたはずです。ですが歯がゆく思うことと、何かできることは別の話です。この状況で、心を保つ方法があるとしたら何でしょうか。
装備も母星も自由も、全部フリーザのものです。仕事の中身も選べない。手元に残るものはほとんどない。唯一、誰にも取り上げられず、元手もいらず、自分の意思だけで持ち続けられるもの。それが誇りです。

「オレたちは誇り高き全宇宙一の強戦士族だ」

この言葉は、外に向けた宣言のようでいて、実は自分たちに向けた言葉だったのではないでしょうか。そうでも言っていないと、やっていられなかった。だからサイヤ人は、それを民族のアイデンティティとして子どもの頃から刷り込んできた。

そう考えると、いくつもの描写が腑に落ちます。ラディッツが自己紹介の一言目にあの言葉を持ってきた理由。 幼い頃から何百回も聞かされ、自分でも唱え続けてきた文句だからです。強戦士族としては最下層の彼が真っ先にそれを掲げたのは、むしろ自然なことでしょう。

ベジータが「サイヤ人の王子」という肩書きにこだわり続ける理由。 よく考えてみてください。彼が治めるべき国はもうありません。国民もいない。中身のない称号だからこそ、言い続けなければ消えてしまうのです。
「下級戦士のくせに」というセリフに執着する理由。 フリーザの下では、サイヤ人は全員が等しく駒でしかない。だからこそ、種族の内側の序列だけは死守したかったのだと思います。本当に持っている人は、わざわざ名乗りません。声に出して確認しないと保てない誇りは、たいてい中身が足りていないのです。

傍証:フリーザが恐れたのは誇りではなく伸びしろだった

この仮説を補強する材料が、原作にもう一つあります。フリーザがサイヤ人を滅ぼした理由です。
ドドリアの説明によれば、フリーザはサイヤ人がいずれ力をつけ、集団で結託して反乱を起こすことを恐れ、先手を打って母星ごと消し去りました。

彼が警戒したのは、サイヤ人の戦闘能力と成長速度です。誇りでも結束でも忠誠心の欠如でもなく、単純な性能の問題でした。そしてここが重要なのですが、原作の範囲では、サイヤ人がフリーザに反乱を起こした描写は一つもありません。

彼らは抵抗する機会も与えられないまま、惑星ごと消えました。生き残った者たちはそれを事故だと信じ、そのあとも何年もフリーザ軍で働き続けたのです。誇り高き戦闘民族が、支配者に一矢も報いずに滅ぼされ、その支配者に忠実に仕え続けた。この事実は、なかなか重いと思います。

(なお、サイヤ人の祖先がツフル人から星を奪った話や、悟空の父バーダックがフリーザに立ち向かった話は、原作漫画には出てきません。アニメや後年の関連作品で描かれたものです。原作だけを読む限り、サイヤ人がフリーザに抵抗した記録は存在しません。)

本当の民族的特徴は、誇りではなく戦闘欲

では、サイヤ人には民族としての中身が何もなかったのかというと、そんなことはありません。むしろ極めてはっきりした特徴が一つあります。
強い相手と戦うことが、どうしようもなく楽しいという性質です。

悟空は強敵を前にすると顔をほころばせ、わくわくすると口にします。ベジータは瀕死の状態でも、より強い敵の出現に高揚する。おとなしい悟飯でさえ、怒りに任せて相手を追い詰めるときには明らかにスイッチが入っている。
これは全員に共通していて、しかも作品を通して一貫しています。サイヤ人を定義しているのは誇りではなく、戦うこと自体への欲求なのです。

そして皮肉なことに、この性質は誇りと相性が最悪です。戦うのが楽しくてたまらない種族に、正々堂々の作法が根づくはずがない。もっと強いやつと戦いたい、勝ちたい、その衝動の前では、手段の美学など後回しになるに決まっています。

「誇り高き戦闘民族」という名乗りのうち、事実なのは「戦闘民族」の部分だけで、「誇り高き」は後から貼られたラベルだった。私はそう考えています。

それでも、空っぽの看板に中身を入れた男がいる

ずいぶん夢のない話を続けてきました。ですが、この考察には続きがあります。サイヤ人の誇りは、民族の性質としては最初から空っぽでした。ですが、たった一人だけ、その空っぽの看板に半生をかけて中身を入れた男がいます。

それが、ベジータです。
魔人ブウ編の終盤で彼がしたことを思い出してください。彼は、家族と地球を守るために、勝てないと分かっている相手に自爆を仕掛けました。これは「オレが最強だ」の証明とは何の関係もない行為です。格付けの誇りからは絶対に出てこない選択でしょう。
そして最後には、悟空に向かって、自分は勝てなかったと認めます。人生をかけて否定し続けてきた事実を、自分の口で言葉にしたのです。

さらに彼は、地球の人々に向かって力を貸してくれと呼びかけます。かつて虫けらとしか見ていなかった相手に、頭を下げて助けを求めた。ナメック星編の彼を知る者からすれば、ありえない光景です。
つまりベジータは、格付けの誇りを手放したその瞬間に、初めて作法としての誇り──他人への責任を含んだ、本物の矜持を手に入れたわけです。

サイヤ人の誇りは、民族が受け継いできたものではありませんでした。ベジータという一人の男が、生涯をかけて後から作り上げたものだったのです。
だからこそ、あの場面は胸に来るのだと思います。もし「サイヤ人はもともと誇り高い民族です」という設定が本当だったなら、彼の変化にはたいした意味がありません。空っぽの看板を背負わされた男が、自力でそこに中身を詰めていく話だったからこそ、あれだけの重みが出たのです。

総括

長くなりましたので、まとめます。

  1. 「誇り高き」という表現の出どころはラディッツの名乗りであり、他者からの評価ではない
  2. そのラディッツ自身が、命乞い・だまし討ち・人質と、誇りとは正反対のことを一通りやっている
  3. 上級戦士のナッパも同様で、勝てないと分かった瞬間に矛先を子どもへ向け、最後は仲間に助けを求めた
  4. サイヤ人の仕事は、住民を全滅させて星を売る地上げ業であり、赤ん坊に虐殺をさせる手口だった
  5. ナメック星編までのベジータは、共闘も不意打ちも小細工も辞さない、勝つためなら何でもやる男だった
  6. 私たちが思い描く一対一へのこだわりは、人造人間編以降のベジータが悟空への対抗心から作った個人的なルールである
  7. サイヤ人が実際に持っていたのは、作法としての誇りではなく血統と序列への自負だけだった
  8. それが肥大したのは、フリーザの下という逃げ場のない環境で、心を保つ必要があったからではないか
  9. 実際、原作の範囲でサイヤ人が反旗を翻した描写はなく、真実すら知らされずに滅ぼされている
  10. 民族の本質は誇りではなく、戦うこと自体への欲求である
  11. そして空っぽの看板に中身を入れたのは、ベジータただ一人だった

「サイヤ人は誇り高き戦闘民族である」
この一文は、事実の記述ではなく願望の記述だったのだと思います。そう名乗っていないと立っていられなかった民族の、切実な自己暗示だった。そう読み替えたとき、ラディッツのあの大げさな自己紹介も、ベジータが何度も口にする「サイヤ人の王子」という肩書きも、少し違って見えてきませんか。

滅んだ星の、滅んだ王家の、誰も認めていない称号を、彼はずっと一人で名乗り続けていたわけです。そして最後には、その称号にふさわしい男に、自分でなってしまった。サイヤ人は誇り高き戦闘民族だったのか。原作を読む限り、答えは「いいえ」です。
ですが、最後にただ一人だけ、本当にそうなった男がいた。これが私の結論です。

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