ドラゴンボールには数多くの「悪役」が登場します。 フリーザ、セル、魔人ブウ……いずれも圧倒的な戦闘力で悟空たちの前に立ちはだかった強敵であり、同時に魅力的なキャラクターです。
しかし、それら宇宙規模の脅威とはまったく異なるスケール感で、物語の初期に独特の存在感を放った悪役がいます。 鶴仙人です。
鶴仙人は、天下一武道会編で亀仙人のライバルとして登場し、弟子の天津飯とチャオズを使って悟空たちを陥れようとしました。しかし最終的には天津飯に離反され、その後第23回天下一武道会でサイボーグ桃白白とともに再登場しましたが、天津飯に完全に見放されたのを最後に、原作からは事実上退場してしまいます。

多くの読者にとって、鶴仙人は「嫌味で卑怯な小悪党」というイメージで終わっているのではないでしょうか。 でも、ちょっと待って欲しいのです。
鶴仙人はもともと亀仙人と同門の兄弟弟子だったのです。ふたりは共に武泰斗(むたいと)の弟子として、同じ釜の飯を食い、同じ修業に励んだ仲間でした。そして、鶴仙人が「悪の道」に堕ちたきっかけには、あのピッコロ大魔王が深く関わっていたのです。
この事実を踏まえて考えると、鶴仙人というキャラクターの見え方はまったく変わってきます。 そしてこう思わずにはいられないのです。もし鶴仙人が闇堕ちしなかったら、ドラゴンボールという物語はどう変わっていたのか?と。
武泰斗の下で共に修業した二人
まず、亀仙人と鶴仙人の関係を整理しておきましょう。
ふたりの師匠は武泰斗(むたいと)です。 武泰斗は、かつてピッコロ大魔王を魔封波で封印した伝説の武道家です。その技によって世界は救われましたが、武泰斗自身は魔封波の反動によって命を落としました。

亀仙人と鶴仙人は、この武泰斗の弟子として若い時代を過ごしています。 つまり、ふたりは「師匠を同じくする兄弟弟子」なのです。
ここで注目すべきは、ふたりが共に修業をしていた時代、鶴仙人はまだ「悪」ではなかったということです。少なくとも、武泰斗がふたりを同時に弟子として受け入れていたということは、鶴仙人にも武道家としての素質と、それに見合うだけの心構えがあったはずです。
武泰斗は正義の武道家です。 そんな人物が、最初から邪悪な心を持った人間を弟子にするでしょうか? 普通に考えれば、答えはノーでしょう。
つまり、若き日の鶴仙人は、亀仙人と同じく正義の側に立つ武道家だったと考えるのが自然です。 ではいったい何が、鶴仙人を変えてしまったのでしょうか。
アニメが描いた「若き日のふたり」
原作では亀仙人と鶴仙人の過去についてはほとんど掘り下げられていません。しかし、アニメ版『ドラゴンボール』では、若き日のふたりが登場するエピソードが描かれています。これがなかなか興味深いのです。
まず一つ目は、亀仙人と鶴仙人がひとりの女性をめぐって争うエピソードです。若い頃の亀仙人と鶴仙人が、同じ女性に惚れてしまい、互いに出し抜こうとする話です。
このエピソードで印象的なのは、鶴仙人がすでにこの頃から嫌味な性格として描かれていることです。 亀仙人に対して皮肉を言ったり、姑息な手段で女性の気を引こうとしたりする。 ある意味では、後の「嫌味な鶴仙人」の片鱗がすでに見えているわけです。

しかし、ここで重要なのは、この時点での鶴仙人はまだ「悪人」ではないということです。嫌味な性格ではあるけれど、それはあくまで性格の問題であって、殺し屋を養成したり卑怯な手段で相手を殺そうとしたりする「闇の武道家」ではなかった。 言ってしまえば、亀仙人だって相当なスケベじいさんなわけで、「性格に難がある」という点ではお互い様です。
そしてもう一つのエピソード。こちらがこの考察の核心に関わります。それは、若き日の亀仙人と鶴仙人がピッコロ大魔王と共闘して戦うエピソードです。そう、共闘です。後に犬猿の仲となるふたりが、背中を合わせてピッコロ大魔王という巨悪に立ち向かっていたのです。
このエピソードの存在は、鶴仙人というキャラクターを理解する上で極めて重要です。なぜなら、この描写によって鶴仙人がかつて「正義の側」にいたことが明確に示されているからです。
正義の無力さが鶴仙人を変えた
では、正義の武道家だった鶴仙人は、なぜ闇に堕ちたのか。その鍵は、ピッコロ大魔王との戦いの結末にあります。
亀仙人と鶴仙人がピッコロ大魔王に挑んだとき、ふたりは敗北しています。当然です。ピッコロ大魔王は師匠の武泰斗が命を懸けてようやく封印できた存在です。 弟子であるふたりが正面から戦って勝てる相手ではありません。
結局、ピッコロ大魔王を封じることができたのは武泰斗の魔封波であり、その代償として武泰斗は命を落としました。
ここで、亀仙人と鶴仙人の間に決定的な「解釈の違い」が生まれたのだと考えられます。
亀仙人は、師匠の犠牲を受け入れた上で、その意志を継ぐことを選びました。 正義のために命を懸けた武泰斗の生き方を尊敬し、自分もまた正義の武道家であり続けようとした。 たとえ自分が師匠ほど強くなくても、師の教えを信じ、次の世代にそれを伝えていこうとしたのです。
一方で鶴仙人は、この出来事から全く異なる結論を導き出しました。
「正義は無力だ」と。
師匠は正義のために戦い、命を落とした。 自分たちも正義のために戦ったが、何もできなかった。 結局、正義を貫いたところで強大な悪の前には無力でしかない。ならば、自分は強くなるために手段を選ばない。正義などという綺麗事に縛られるのは愚かなことだ。
おそらく、鶴仙人はこのように考えたのでしょう。
この解釈は、後の鶴仙人の行動と完全に一致します。殺し屋として弟子を育て、勝つためなら手段を選ばず、武道を「正義のため」ではなく「支配のため」に使う。 それは、正義の無力さを痛感した人間が辿りつく、ひとつの帰結です。
同じ師匠、同じ経験、違う結論
ここで改めて考えてみたいのは、亀仙人と鶴仙人が「まったく同じ経験をしている」という事実です。
同じ師匠に学び、同じ敵と戦い、同じ敗北を味わい、同じ師匠の死を目の当たりにした。それなのに、ふたりは正反対の道を歩むことになった。
これは非常にドラゴンボールらしいテーマだと思います。
ドラゴンボールでは「同じ境遇から異なる道を選んだ者たち」が繰り返し描かれます。悟空とベジータ。同じサイヤ人でありながら、地球で育った悟空と惑星ベジータで王子として育ったベジータでは、戦いに対する姿勢がまったく違う。
ピッコロと神様。もともとひとつの存在でありながら、善と悪に分離した。 17号と18号。同じ人造人間でありながら、未来世界と現代世界で全く異なる人生を歩む。
亀仙人と鶴仙人の関係も、この系譜に連なるものだと言えるでしょう。
しかも、悟空とベジータやピッコロと神様が「もともと異なる環境や性質を持っていた」のに対して、亀仙人と鶴仙人は「同じ環境で同じ経験をした」にもかかわらず分かれた、という点でより残酷です。
つまり、ふたりを分けたのは外的要因ではなく、内面の問題だったのです。
師匠の死という同じ悲しみを前にして、それでも正義を信じ続けられるか、それとも正義に絶望するか。 その差が、亀仙人と鶴仙人の運命を決定的に分けてしまった。
天津飯の離反が意味するもの
鶴仙人の物語を語る上で、天津飯の存在は欠かせません。
天津飯は鶴仙人の弟子として登場し、当初は師匠の命令に従って悟空たちを倒そうとしていました。 しかし天下一武道会の中で悟空やクリリンと触れ合い、亀仙人の言葉に心を動かされ、最終的には師匠である鶴仙人に反旗を翻します。
このエピソードは、ある意味で武泰斗と亀仙人・鶴仙人の関係の「やり直し」とも読めるのではないでしょうか。
武泰斗の弟子のうち、ひとりは正義の道に残り(亀仙人)、ひとりは悪の道に堕ちた(鶴仙人)。 そして悪の道に堕ちた鶴仙人の弟子が、今度は正義の側に引き戻された(天津飯)。
まるで、武泰斗の正義の意志が、亀仙人を通じて天津飯に伝播したかのようです。
亀仙人は天下一武道会で、天津飯にこう語りかけます。 武道の道は勝ち負けだけではない。強さとは人を傷つけるためのものではない。 これは、まさに武泰斗が弟子たちに伝えようとしたであろう教えそのものです。
鶴仙人はその教えを捨てた。しかし亀仙人はそれを守り、天津飯に伝えた。 そして天津飯はそれを受け取った。ここに、鶴仙人の最大の悲劇があります。 鶴仙人は自分の弟子を、かつて自分が捨てた師匠の教えによって奪われたのです。
考えてみてください。鶴仙人の立場に立てば、これほど皮肉な展開はありません。 自分が「無力だ」と見切りをつけた正義の武道が、自分の弟子の心を奪っていく。 自分が「愚かだ」と思った亀仙人の生き方が、天津飯にとっては正しい道に見えてしまう。
鶴仙人が天津飯の離反に対して激昂したのは、単に弟子を失ったからだけではないでしょう。 自分が否定したはずの「正義」が、結局は自分の「悪」よりも強かったことを突きつけられたからではないでしょうか。
もし鶴仙人が闇堕ちしなかったら
さて、ここからはいよいよ本題です。 もし鶴仙人が亀仙人と同じように師匠の意志を継いで正義の武道家であり続けたら、ドラゴンボールの世界はどう変わっていたのか。
これを考えるには、まず鶴仙人の実力を整理する必要があります。
鶴仙人は、亀仙人と同格の実力を持つ武道家です。 亀仙人がかめはめ波を編み出したのに対し、鶴仙人の流派には太陽拳、どどん波、気功砲、四身の拳、舞空術など、実に多彩な技が伝わっています。特に舞空術はドラゴンボールの後半ではほぼ全員が使用する基本技術となっていますが、もともとは鶴仙流の技と言われています。
下記の記事では、舞空術の元祖についても考察していま。
技のバリエーションという点では、むしろ鶴仙流のほうが亀仙流よりも豊富だと言えるかもしれません。もし鶴仙人が正義の武道家であり続けたら、まず天下一武道会編の展開が大きく変わります。 亀仙人と鶴仙人が対立することはなく、天津飯とチャオズは最初から悟空たちの仲間だった可能性があります。
そしてより大きな影響があるのは、ピッコロ大魔王編です。
原作では、ピッコロ大魔王が復活した際、亀仙人は師匠の魔封波を自ら使おうとして失敗し、命を落としています。 この時、もし鶴仙人が亀仙人の側にいたらどうでしょうか。
ふたりで協力すれば、魔封波の成功率は上がったかもしれません。あるいは、ひとりが魔封波を放ち、もうひとりがそのサポートをするという連携ができたかもしれない。 亀仙人が失敗したのは電子ジャーのフタが閉まらなかったからですが、鶴仙人がフタを閉める役を担っていれば、あるいは封印は成功していた可能性すらあります。
もちろん、ピッコロ大魔王が封印されてしまえば、その後のピッコロ(マジュニア)の登場もなくなります。 ピッコロが登場しなければ、サイヤ人編で悟飯を守って死ぬこともなく、ナメック星に行く理由もなくなり……と、物語は根本から変わってしまいます。
さすがにそこまでの「もしも」は飛躍しすぎかもしれませんが、少なくとも「正義の鶴仙人」がいる世界では、亀仙流と鶴仙流の両方の技術と知恵を結集して戦えたはずです。
かめはめ波と気功砲。亀仙流の基礎体力重視の修業と、鶴仙流の多彩な技のレパートリー。 もしこのふたつの流派が対立せず協力していたら、弟子たちの成長速度はさらに速かったかもしれません。
「師を信じて待つ」ということ
最後に、亀仙人と鶴仙人を分けた本質的な違いについて考えてみたいと思います。
亀仙人は、師匠の武泰斗が命を懸けてピッコロ大魔王を封印したとき、その犠牲を受け入れました。 師匠の死を無駄にしないために、自分は正義の武道家として生き、いつか師匠の意志を継げるような弟子を育てよう。 そう考えたのだと思います。
実際、亀仙人は悟空やクリリンを育て、天津飯の心をも正義の側に引き戻しました。 直接的に世界を救ったのは悟空かもしれませんが、その悟空を育てたのは亀仙人です。 亀仙人の「師を信じて待つ」という姿勢は、長い時間をかけて実を結んだのです。
一方で鶴仙人は「待つ」ことができなかった。 師匠の犠牲を前にして、その意味を信じることができなかった。 正義が報われる日を待つことができず、目の前の無力感に屈してしまった。
対して亀仙人はそういう「信じる力」を持っていた人物です。 師匠の正義は無駄ではなかった。いつか正義が勝つ日が来る。 その信念があったからこそ、亀仙人は武道家として弟子を育て続けることができた。
しかし、鶴仙人にはその信念が持てなかった。 もしかしたら、鶴仙人は亀仙人よりも「現実的」だったのかもしれません。 師匠が命を落とすほどの敵がいる世界で、正義を貫くことにどれほどの意味があるのか。 そう考えるのは、ある意味では合理的です。
ドラゴンボールの世界においては、その「合理的な判断」こそが鶴仙人を袋小路に追い込みました。 悪の道に走った鶴仙人は、結局のところ何も手に入れられなかった。 天津飯もチャオズも失い、桃白白も悟空に敗れ、自身も物語から退場していく。
対して、非合理的にも正義を信じ続けた亀仙人は、悟空という「希望」を育て上げた。皮肉なことに、鶴仙人が「正義は無力だ」と結論づけたピッコロ大魔王を最終的に倒したのは、亀仙人の弟子である悟空だったのです。 鶴仙人が信じられなかった「正義の力」が、亀仙人の弟子の手によって証明された。
これほど残酷で、これほど美しい因果があるでしょうか。
総括
鶴仙人は、ドラゴンボールの中では比較的地味な悪役として扱われがちです。 フリーザやセルのような圧倒的な存在感はなく、物語への影響力も限定的です。しかし、その背景を丁寧に紐解いていくと、鶴仙人こそがドラゴンボールの中で最も「人間らしい」悪役だったのではないかと思えてきます。
宇宙の帝王でもなければ、究極の人造人間でもない。 ただ、正義の無力さに絶望した、ひとりの武道家。 師匠の死を受け入れられず、信じることをやめてしまった、ひとりの人間。
もし鶴仙人が亀仙人のように「師を信じて待つ」ことができていたら。 もし正義に絶望せず、武泰斗の教えを守り続けていたら。
亀仙流と鶴仙流が手を取り合い、悟空も天津飯もクリリンもチャオズも、最初からひとつのチームとして戦う。 そんな「もうひとつのドラゴンボール」があったのかもしれません。
もちろん、鶴仙人が闇堕ちしたからこそ、天津飯の「離反」という名場面が生まれ、天津飯のキャラクターに深みが出たのも事実です。 物語としては、鶴仙人の闇堕ちは必要な展開でした。
しかし、だからこそ考えてしまうのです。 アニメで描かれた、亀仙人と共にピッコロ大魔王に立ち向かう若き日の鶴仙人。 あの時の鶴仙人の目には、まだ正義の光が宿っていたはずです。
その光がいつ消えたのか。何が消してしまったのか。 そしてもし消えていなかったら、どんな未来があったのか。
それを想像するだけで、ドラゴンボールという作品の奥深さを改めて感じずにはいられません。


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